『聖徳太子コード』特別編「東北の鬼と聖徳太子がこの地に託したもの」(2)
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  • 執筆者の写真中山康直

『聖徳太子コード』特別編「東北の鬼と聖徳太子がこの地に託したもの」(2)

更新日:4月23日

画像:『聖徳太子コード』特別編「東北の鬼と聖徳太子がこの地に託したもの」

霊的な「まつろわぬ民」は東北を目指した

国譲りに従わなかった人たちは、日本各地の山里に散らばりながらも各コミュニティーは一体となって暮らしていたのだが、縄文時代のあと、東北の地を目指すことになった。


蝦夷と呼ばれたこの人たちが、東北に移動していった理由のひとつには、渡来人が西日本を中心に定住し始めたことが上げられる。


この渡来人たちは、紀元前より3世紀頃までに大陸からやってきて日本列島に入り込んでいった人たちで、のちに縄文人と比較して弥生人と呼ばれるようになった存在だ。

弥生時代には、西日本を中心にたくさんの小さな国が存在していたが、主だった国として、日本列島の西南は「邪馬台国」、東北は「日高見国」という、まさに二本の柱で構築されていた列島社会があった。しかし、渡来系の豪族の台頭によって、この二つの国は消えゆく運命を辿っていくことになる。


4世紀を境にそれまでの邪馬台国のような霊力中心の女性社会から、武力中心の男性社会に取って代わっていき、渡来系の騎馬民族を中心とした有力豪族の連合体である「ヤマト王権国家」が樹立し、日本列島の広範囲に勢力を拡げていった。


古墳時代から飛鳥時代にかけて、渡来人によって持ち込まれた大陸の進んだ文化が日本列島で花開いたことは事実だが、飛鳥時代後半の大化の改新あたりからは、さらに渡来系の豪族が力を持つようになったことで、より一層、本来の「ヤマト」の源流である縄文が閉ざされていくことになっていったのだ。



鬼を討伐した征夷大将軍の裏話

渡来系による中央集権化が加速する中で、朝廷にしたがわずに縄文(本来の日本)のスピリットを守り続けていたのが「まつろわぬ民」、蝦夷である。


奈良時代以降、武人の最高栄誉職とされた「征夷大将軍」とは、その名のとおり「蝦夷を征伐する」という意味がある。


奈良時代から平安時代に変わった794年、大友弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。そして、次の征夷大将軍は、かの坂上田村麻呂であり、蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)を降伏させたことが歴史的に伝えられている。


ただ、大友弟麻呂と坂上田村麻呂は、征夷大将軍に任命される前の征夷大使および征夷副使の時に辞表を提出しているのだが、認められなかったという経緯があり、二人は本来、蝦夷討伐には反対だったという裏話がある。



蝦夷討伐は「縄文の封印」であり、日本の乗っ取り計画

そうなると、蝦夷討伐の裏には、「縄文の封印」という日本の乗っ取り計画があったことが浮き彫りになり、蝦夷の人たちを「鬼」として、忌み嫌われるようにしていったその時代の意図的な策略が見えてくる。


聖徳太子はこの流れを察知していたからこそ、いとこの蜂子皇子を朝廷の支配が及ばない東北へ逃がし、封印された日本の源流である縄文が必ずや未来に解かれるように、「ヤマト」の真髄を役小角(役行者)に託したのだ。 


()へ続く

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